倉俣 史朗
Floating Feather(黄)
2004
Installation
H14 × W10 × D8 cm
ときの忘れもの
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- W06
Artist Profile
1934年に倉俣吉治・清の四男として東京都・本郷にある理化学研究所の社宅に生まれる。 1943年に東京の家が空襲で焼ける。後年、空襲時に米軍機が電波妨害のためのアルミチップを落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都駒込に住む。
1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「ドムス」誌においてイタリアデザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。
1957年 - 1964年まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。1964年 - 1965年(1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。
1965年にクラマタデザイン事務所設立。1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。
1970年、日本万博博覧会(EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。1972年、毎日産業デザイン賞受賞。1974年、作家・野坂昭如が参院選に出馬した際、運動員の一人として参加する。
1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。1983年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。
1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。
1990年、フランス文化省芸術文化勲章受章。1991年、急性心不全のため死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。
【受賞歴・展示歴】
67年 横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。
このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、
日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していった。
1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。
1972年 毎日デザイン賞を受賞
1981年 エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントである
メンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。
1981年 日本文化デザイン賞を受賞
1985年 Homage to Josef Hoffmann Begin The Beguine 発表
1986年 How High The Moon 発表
1988年 Miss Blanche 発表
1990年 フランス文化省芸術文化勲章を受勲
ときの忘れもの
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