ときの忘れもの
1995年にギャラリー&美術編集「ときの忘れもの」を南青山に開廊しました(2017年駒込に移転)。
近現代の優れた作家の油彩・ドローイング・版画・写真・彫刻などを紹介し、開催した企画展は360回にのぼり、国内外のアートフェアにも多数出展しています。
版画集や写真のポートフォリオ、展覧会図録などの編集・出版も行ない、日本で唯一建築家の版画の版元としてエディションをしています。
ときの忘れもののブログは毎日更新、作家や研究者、コレクターなどの書き下ろしエッセイを多数連載しています。
Artists
ル・コルビュジエ
磯崎 新
倉俣 史朗
槇文彦
佐藤研吾
仁添まりな
安藤 忠雄
内間安瑆
塩見允枝子
靉嘔
瑛九
松本 竣介
Artworks
Contactル・コルビュジエ
モデュロール
1956
Prints
H70 × W53 cm
ときの忘れもの
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- W06
Artist Profile
ル・コルビュジエ(本名:シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ)は1887年10月に時計の文字盤職人の父とピアノ教師の母との間に生まれました。家業を継ぐはずでしたが弱視のためかなわず、画家を目指して美術学校へ入学。在学中に彼の才能を見出した校長の勧めで建築の道を歩み始めます。1908年にパリに行き、鉄筋コンクリート建築の先駆者オーギュスト・ペレの事務所で働き、10年からはドイツ工作連盟※の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、実地に建築を学びました。その後、17年にパリに戻り画家として活動をしながら、22年に従兄弟のピエールと共同で建築事務所を設立しました。
ペレの事務所でコンクリート技術を学んだル・コルビュジエは、1914年、それまでの石やレンガによる西欧の伝統建築とはかけ離れた、スラブ、柱、階段のみが建築の主要要素だとするドミノシステムを考案。機能性を信条としたモダニズム建築を提唱しました。
26年には、「新しい建築の5原則(ピロティ、自由な平面、自由な立面、独立骨組みによる水平連続窓、屋上庭園)」を提示。その理念を体現した最高傑作が「サヴォア邸」と言われています。
30年代には「現代建築国際会議(CIAM)」のリーダーとしても活躍し、いくつもの都市計画を提案しました。
建築家として有名になってからも絵を描き続け、画家としての顔も持っていたル・コルビュジエ。
1918年に、画家オザンファンとキュビズムを純粋化させたピュリズム(純粋主義)を唱えて絵画を発表し、画家としてデビューします。
また、1920年には雑誌「レスプリ・ヌーボー」を創刊して自らの理論を掲載。この時の記事に「ル・コルビュジエ」というペンネームを使うようになりました。
1929年には、従姉妹のピエールとシャルロット・ペリアンのコラボレーションで家具「LCシリーズ」を発表。シンプルで機能的なデザインは時代を超えて愛され続け、現在でもシリーズとして販売されています。
第2次世界大戦後は、ヨーロッパの男性の身長183cmを基準にした独自の尺度「モデュロール」を完成させ、集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」に採用しました。国立西洋美術館本館にもこの尺度が使われています。
晩年には初期に見られるような機能的なデザインから離れ、「ロンシャンの礼拝堂」に見られるような有機的で自由な造形的な建築物も手掛けました。これは後期の最高傑作と言われています。
65年、南フランスで海水浴中に心臓発作のため逝去。77歳の生涯を閉じました。世界12カ国にわたり60点あまりの彼の作品は、今なお人々を魅了してやみません。
ときの忘れもの
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磯崎 新
OFFICE-I(BANK)
1983
Prints
H55 × W55 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』など多数。
早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。
ときの忘れもの
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倉俣 史朗
倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier 1 (シルクスクリーン10点組)
2020
Prints
H38 × W48 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1934年に倉俣吉治・清の四男として東京都・本郷にある理化学研究所の社宅に生まれる。 1943年に東京の家が空襲で焼ける。後年、空襲時に米軍機が電波妨害のためのアルミチップを落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都駒込に住む。
1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「ドムス」誌においてイタリアデザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。
1957年 - 1964年まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。1964年 - 1965年(1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。
1965年にクラマタデザイン事務所設立。1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。
1970年、日本万博博覧会(EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。1972年、毎日産業デザイン賞受賞。1974年、作家・野坂昭如が参院選に出馬した際、運動員の一人として参加する。
1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。1983年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。
1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。
1990年、フランス文化省芸術文化勲章受章。1991年、急性心不全のため死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。
【受賞歴・展示歴】
67年 横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。
このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、
日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していった。
1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。
1972年 毎日デザイン賞を受賞
1981年 エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントである
メンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。
1981年 日本文化デザイン賞を受賞
1985年 Homage to Josef Hoffmann Begin The Beguine 発表
1986年 How High The Moon 発表
1988年 Miss Blanche 発表
1990年 フランス文化省芸術文化勲章を受勲
ときの忘れもの
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倉俣 史朗
倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier 3 (シルクスクリーン 10点組)
2022
Prints
H38 × W48 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1934年に倉俣吉治・清の四男として東京都・本郷にある理化学研究所の社宅に生まれる。 1943年に東京の家が空襲で焼ける。後年、空襲時に米軍機が電波妨害のためのアルミチップを落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都駒込に住む。
1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「ドムス」誌においてイタリアデザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。
1957年 - 1964年まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。1964年 - 1965年(1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。
1965年にクラマタデザイン事務所設立。1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。
1970年、日本万博博覧会(EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。1972年、毎日産業デザイン賞受賞。1974年、作家・野坂昭如が参院選に出馬した際、運動員の一人として参加する。
1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。1983年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。
1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。
1990年、フランス文化省芸術文化勲章受章。1991年、急性心不全のため死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。
【受賞歴・展示歴】
67年 横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。
このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、
日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していった。
1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。
1972年 毎日デザイン賞を受賞
1981年 エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントである
メンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。
1981年 日本文化デザイン賞を受賞
1985年 Homage to Josef Hoffmann Begin The Beguine 発表
1986年 How High The Moon 発表
1988年 Miss Blanche 発表
1990年 フランス文化省芸術文化勲章を受勲
ときの忘れもの
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槇文彦
日仏会館ポスター2
Prints
H28 × W32 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1928年東京都に生まれる。1952年に東京大学工学部建築学科を卒業し、アメリカのクランブルック美術学院及びハーバード大学大学院の修士課程を修了。その後は、スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル、セルト・ジャクソン建築設計事務所、ワシントン大学のキャンパス・プランニング・オフィスに勤務する。ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインの準教授も務める。1965年に帰国、株式会社槇総合計画事務所を設立。
帰国後も40人の所員と共にオフイスを構えながら、東京大学教授を務め、1989年まで教壇に立つ。現在に至るまで日本を含め、アメリカとヨーロッパで講演を続けている。 2008年には、建築と都市に関するエッセイ集Nurturing Dreams(MIT Press)を出版。
槇文彦は国内外で数々の賞に輝くなど高い評価を得ている。主な受賞歴は、1988にイスラエルのウルフ基金賞受賞、1990にトーマス・ジェファーソン建築賞受賞、1993年に国際建築家連合(UIA)ゴールドメダルとハーバード大学から贈られるプリンス・オブ・ウェールズ都市デザイン賞受賞、1999年に アーノルド・ブルンナー記念建築賞と高松宮殿下記念世界文化賞建築
部門受賞。
多数ある受賞の中でも、最も建築家にとって名誉あるプリツカー賞を1993年に受賞し、2011年にはAIAアメリカ建築家協会から贈られる ゴールドメダルも受賞。2024年死去、享年95。
ときの忘れもの
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倉俣 史朗
Floating Feather(黄)
2004
Installation
H14 × W10 × D8 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1934年に倉俣吉治・清の四男として東京都・本郷にある理化学研究所の社宅に生まれる。 1943年に東京の家が空襲で焼ける。後年、空襲時に米軍機が電波妨害のためのアルミチップを落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都駒込に住む。
1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「ドムス」誌においてイタリアデザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。
1957年 - 1964年まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。1964年 - 1965年(1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。
1965年にクラマタデザイン事務所設立。1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。
1970年、日本万博博覧会(EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。1972年、毎日産業デザイン賞受賞。1974年、作家・野坂昭如が参院選に出馬した際、運動員の一人として参加する。
1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。1983年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。
1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。
1990年、フランス文化省芸術文化勲章受章。1991年、急性心不全のため死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。
【受賞歴・展示歴】
67年 横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。
このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、
日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していった。
1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。
1972年 毎日デザイン賞を受賞
1981年 エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントである
メンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。
1981年 日本文化デザイン賞を受賞
1985年 Homage to Josef Hoffmann Begin The Beguine 発表
1986年 How High The Moon 発表
1988年 Miss Blanche 発表
1990年 フランス文化省芸術文化勲章を受勲
ときの忘れもの
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槇文彦
日仏会館ポスター1
1984
Prints
H28 × W32 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1928年東京都に生まれる。1952年に東京大学工学部建築学科を卒業し、アメリカのクランブルック美術学院及びハーバード大学大学院の修士課程を修了。その後は、スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル、セルト・ジャクソン建築設計事務所、ワシントン大学のキャンパス・プランニング・オフィスに勤務する。ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインの準教授も務める。1965年に帰国、株式会社槇総合計画事務所を設立。
帰国後も40人の所員と共にオフイスを構えながら、東京大学教授を務め、1989年まで教壇に立つ。現在に至るまで日本を含め、アメリカとヨーロッパで講演を続けている。 2008年には、建築と都市に関するエッセイ集Nurturing Dreams(MIT Press)を出版。
槇文彦は国内外で数々の賞に輝くなど高い評価を得ている。主な受賞歴は、1988にイスラエルのウルフ基金賞受賞、1990にトーマス・ジェファーソン建築賞受賞、1993年に国際建築家連合(UIA)ゴールドメダルとハーバード大学から贈られるプリンス・オブ・ウェールズ都市デザイン賞受賞、1999年に アーノルド・ブルンナー記念建築賞と高松宮殿下記念世界文化賞建築
部門受賞。
多数ある受賞の中でも、最も建築家にとって名誉あるプリツカー賞を1993年に受賞し、2011年にはAIAアメリカ建築家協会から贈られる ゴールドメダルも受賞。2024年死去、享年95。
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倉俣 史朗
倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier 2 (シルクスクリーン10点組)
2020
Prints
H38 × W48 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1934年に倉俣吉治・清の四男として東京都・本郷にある理化学研究所の社宅に生まれる。 1943年に東京の家が空襲で焼ける。後年、空襲時に米軍機が電波妨害のためのアルミチップを落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都駒込に住む。
1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「ドムス」誌においてイタリアデザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。
1957年 - 1964年まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。1964年 - 1965年(1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。
1965年にクラマタデザイン事務所設立。1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。
1970年、日本万博博覧会(EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。1972年、毎日産業デザイン賞受賞。1974年、作家・野坂昭如が参院選に出馬した際、運動員の一人として参加する。
1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。1983年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。
1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。
1990年、フランス文化省芸術文化勲章受章。1991年、急性心不全のため死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。
【受賞歴・展示歴】
67年 横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。
このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、
日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していった。
1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。
1972年 毎日デザイン賞を受賞
1981年 エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントである
メンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。
1981年 日本文化デザイン賞を受賞
1985年 Homage to Josef Hoffmann Begin The Beguine 発表
1986年 How High The Moon 発表
1988年 Miss Blanche 発表
1990年 フランス文化省芸術文化勲章を受勲
ときの忘れもの
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磯崎 新
ヴィッラKr
1978
Prints
H47 × W47 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
建築家。1931年大分市生まれ。54年東京大学卒業。61年東京大学数物系大学院建築学博士課程修了。63年磯崎新アトリエを設立。代表作に[大分県立中央図書館][岩田学園][福岡相互銀行本店][つくばセンタービル][MOCA―ロサンゼルス現代美術館][バルセロナ市オリンピック・スポーツホール][ティーム・ディズニー・ビルディング][山口県秋吉台国際芸術村][トリノ冬季五輪アイスホッケーメーン会場]他。近年は頻繁にアジアに出向き、多数のプロジェクトに参加している。日本建築学会賞、RIBA賞、朝日賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞、他受賞。著書『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』など多数。
早くから建築のみならず、思想、美術、デザイン、映画などの国際的な舞台で活躍、評論や設計競技の審査を通じて、世界のラディカルな建築家たちの発想を実現に導くうえでのはかり知れない支援を果たしてきた。日本を代表するとともに、世界の建築界で最も信頼されている建築家である。自らの建築観(コンセプト)を紙の上に表現することに強い意欲を示し、77年から既に200点もの版画を制作している。現在、ときの忘れものを版元に、版画とエッセイによる連刊画文集《百二十の見えない都市》に取り組んでいる。
ときの忘れもの
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倉俣 史朗
倉俣史朗 Shiro Kuramata Cahier 4 (シルクスクリーン 10点組)
2024
H38 × W48 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1934年に倉俣吉治・清の四男として東京都・本郷にある理化学研究所の社宅に生まれる。 1943年に東京の家が空襲で焼ける。後年、空襲時に米軍機が電波妨害のためのアルミチップを落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都駒込に住む。
1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「ドムス」誌においてイタリアデザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。
1957年 - 1964年まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。1964年 - 1965年(1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。
1965年にクラマタデザイン事務所設立。1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。
1970年、日本万博博覧会(EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。1972年、毎日産業デザイン賞受賞。1974年、作家・野坂昭如が参院選に出馬した際、運動員の一人として参加する。
1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。1983年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。
1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。
1990年、フランス文化省芸術文化勲章受章。1991年、急性心不全のため死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。
【受賞歴・展示歴】
67年 横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。
このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、
日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していった。
1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。
1972年 毎日デザイン賞を受賞
1981年 エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントである
メンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。
1981年 日本文化デザイン賞を受賞
1985年 Homage to Josef Hoffmann Begin The Beguine 発表
1986年 How High The Moon 発表
1988年 Miss Blanche 発表
1990年 フランス文化省芸術文化勲章を受勲
ときの忘れもの
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佐藤研吾
空洞のための囲い2
2022
Photography
H8 × W8 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
建築家、一級建築士
1989年神奈川県横浜生まれ。
2011年東京大学工学部建築学科卒業。
2013年早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。
同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。
2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professorに就任。
同年より東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。
2016年より福島県大玉村で藍染めの活動をする歓藍社に所属。
同年よりインドでのデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
2017年に「インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く」でSDレビュー2017の鹿島賞を受賞。
2018年より福島県大玉村地域おこし協力隊。
インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら、創作活動に取り組んでいる。
ときの忘れもの
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仁添まりな
琉球花鳥 ニライカナイの雉子
2023
Painting
H92 × W117 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1993 年、沖縄県北谷町生まれ。2010 年、沖縄県立芸術大学美術工芸学部絵画専攻(日本画コース)に入学。日本画を学びながら、学部3 年次から琉球絵画の研究を始める。2021 年に同大学院博士課程を修了し、現在は沖縄県立芸術大学の非常勤講師として働きながら県内外で作家活動を行っている。「琉球絵画の花鳥楽園」を一貫したテーマとして扱う。中国の影響を受けた琉球絵画の花鳥画には、中国から伝来した花と鳥の吉祥を意味する組み合わせが多く取り入れられ、人々の願いを込めて描かれていたことに関心を抱き、現代に通じる吉祥画題として、自らの作品にアレンジを加えながら取り入れている。琉球絵画の描法を積極的に取り入れ、伝統的な吉祥の画題を、現代の琉球絵画で描く楽園として制作していくことで、伝統と革新を試みている。
ときの忘れもの
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佐藤研吾
空洞のための囲い5
2022
Photography
H8 × W8 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
建築家、一級建築士
1989年神奈川県横浜生まれ。
2011年東京大学工学部建築学科卒業。
2013年早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。
同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。
2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professorに就任。
同年より東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。
2016年より福島県大玉村で藍染めの活動をする歓藍社に所属。
同年よりインドでのデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
2017年に「インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く」でSDレビュー2017の鹿島賞を受賞。
2018年より福島県大玉村地域おこし協力隊。
インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら、創作活動に取り組んでいる。
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仁添まりな
琉球花鳥 ニライカナイの孔雀
2023
Painting
H131 × W96 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1993 年、沖縄県北谷町生まれ。2010 年、沖縄県立芸術大学美術工芸学部絵画専攻(日本画コース)に入学。日本画を学びながら、学部3 年次から琉球絵画の研究を始める。2021 年に同大学院博士課程を修了し、現在は沖縄県立芸術大学の非常勤講師として働きながら県内外で作家活動を行っている。「琉球絵画の花鳥楽園」を一貫したテーマとして扱う。中国の影響を受けた琉球絵画の花鳥画には、中国から伝来した花と鳥の吉祥を意味する組み合わせが多く取り入れられ、人々の願いを込めて描かれていたことに関心を抱き、現代に通じる吉祥画題として、自らの作品にアレンジを加えながら取り入れている。琉球絵画の描法を積極的に取り入れ、伝統的な吉祥の画題を、現代の琉球絵画で描く楽園として制作していくことで、伝統と革新を試みている。
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佐藤研吾
囲い込むための空洞 3
2022
Installation
H90 × W40 × D40 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
建築家、一級建築士
1989年神奈川県横浜生まれ。
2011年東京大学工学部建築学科卒業。
2013年早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。
同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。
2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professorに就任。
同年より東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。
2016年より福島県大玉村で藍染めの活動をする歓藍社に所属。
同年よりインドでのデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
2017年に「インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く」でSDレビュー2017の鹿島賞を受賞。
2018年より福島県大玉村地域おこし協力隊。
インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら、創作活動に取り組んでいる。
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佐藤研吾
遠い場所を囲い込むための空洞 1
2022
Installation
H20 × W25 × D20 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
建築家、一級建築士
1989年神奈川県横浜生まれ。
2011年東京大学工学部建築学科卒業。
2013年早稲田大学大学院創造理工学研究科建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。
同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。
2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professorに就任。
同年より東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。
2016年より福島県大玉村で藍染めの活動をする歓藍社に所属。
同年よりインドでのデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
2017年に「インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く」でSDレビュー2017の鹿島賞を受賞。
2018年より福島県大玉村地域おこし協力隊。
インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら、創作活動に取り組んでいる。
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安藤 忠雄
住吉の長屋
2017
Drawing
H21 × W110 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、1969年安藤忠雄建築研究所設立。代表作に「光の教会」「ピューリッツァー美術館」「地中美術館」など。1979年「住吉の長屋」で日本建築学会賞、1993年日本芸術院賞、1995年プリツカー賞、2003年文化功労者、2005年国際建築家連合(UIA) ゴールドメダル、2010年ジョン・F・ケネディーセンター芸術金賞、後藤新平賞、文化勲章、2013年フランス芸術文化勲章(コマンドゥール)、2015年イタリア共和国功労勲章グランデ・ウフィチャ―レ章、2016年イサム・ノグチ賞など受賞多数。1991年ニューヨーク近代美術館、1993年パリのポンピドー・センターにて個展開催。イェール、コロンビア、ハーバード大学の客員教授歴任。1997年から東京大学教授、現在、名誉教授。
【原点/住まい】
安藤忠雄にとって、人間の「住まう」という最も根源的な営みを受け止める住宅こそが、建築の原点です。その作品の展開の中で、打ち放しコンクリート、単純な幾何学的造形、自然との共生といったキーワードに象徴される、安藤建築の原型は完成しました。初期の代表作から近年の圧倒的スケールの海外作品まで――住まいを通じて建築とは何かを問う、安藤忠雄の挑戦は今なお続いています。
【光】
極限までそぎ落とされたようなシンプルな造形。その無地の「カンヴァス」に光や風といった自然の息吹が映し出されることにより、安藤忠雄の目指す空間が生まれます。その意図がもっとも端的に現れているのが、一連の教会作品といえるでしょう。風、水、光、地中――それぞれに異なるテーマを与えられた建築作品の内に、それぞれに異なる光の空間が息づいています。
【余白の空間】
自らを「都市ゲリラ」と称した安藤忠雄が、都市において一貫して試みてきたのは、意図的に「余白」の空間をつくりだし、人の集まる場を生み出すことでした。その挑戦精神は、初期の小規模な商業建築から、「表参道ヒルズ」、「東急東横線 渋谷駅」、「上海保利大劇院」といった2000年以降の作品まで、変わることなく息づき、安藤忠雄ならではの個性的な都市建築の系譜が編まれています。
【場所を読む】
大自然に包まれた立地での安藤建築が登場するようになったのは、1980年代末からでした。以降、世界各地に美しくも力強い、建築による風景の創造がなされています。一貫するテーマは、周辺環境と一体化して、その場所の個性を際立たせるような建築です。その象徴が、30年間余りに及ぶ「直島の一連のプロジェクト」といえるでしょう。マスタープランなきままに、人間とアート、場所の自然風土と対話を重ね、生物が増殖するようにプロジェクトを拡張していった、その稀有の建築のプロセスが、かつての名もなき小島を、世界的なアートの聖地に育て上げる原動力の一つとなりました。
【あるものを生かしてないものをつくる】
安藤忠雄にとって、歴史の刻まれた建物の再生は、常に挑戦心をかき立てられるテーマでした。しかし、ここでいう“再生”とは、単に旧いものを残すことでも、それを新たなものとして塗り替えることでもありません。安藤流“再生”とは即ち、新旧が絶妙なバランスで共存する状態をつくりだすことです。そこに生まれる新旧の対話が、過去から現代、未来へと時間をつなぎ、場に新たな命を吹き込んでいく――安藤忠雄の壮大な挑戦は、グローバルな世界で、今なお進行中です。
【育てる】
安藤忠雄が稀代の建築家と呼ばれる理由の一つは、建築という枠組みを超えた社会活動への旺盛な取り組みにあります。完成後の建物の周辺環境整備から、地元大阪でのまちづくり活動、さらには瀬戸内海沿岸、東京湾岸部での環境再生運動……。多岐にわたるそれらの活動の根底にあるのは、「建築をつくること」と「森をつくること」を、同義に考える大胆かつ繊細な感性と、市民をも巻き込む、その壮大な構想を長い時間をかけて実現まで導く、類まれな人間力です。つくり、育てていく――既成の枠組みにとらわれない、安藤忠雄の自由な発想が、建築の新たなる可能性を切り拓きます。
【受賞歴・展示歴】
受賞
1979年 - 日本建築学会賞(住吉の長屋)
1983年 - 日本文化デザイン賞(六甲の集合住宅ほか)
1985年 - フィンランドのアルヴァ・アールト賞
1986年
芸術選奨文部大臣賞新人賞
毎日デザイン賞
1987年 - 毎日芸術賞
1988年 - 吉田五十八賞(城戸崎邸)
1989年 - フランス建築アカデミー賞
1993年 - 日本芸術院賞
1994年 - 日本芸術大賞(大阪府立近つ飛鳥博物館)、朝日賞
1995年 - プリツカー賞
1996年 - 高松宮殿下記念世界文化賞、国際教会建築賞(フラテソーレ)
1997年 - 大阪キワニス賞、RIBAゴールドメダル
2002年 - 京都賞思想・芸術部門、AIAゴールドメダル
2005年 - UIAゴールドメダル
2010年 - 後藤新平賞
栄典
1997年 - 芸術文化勲章(オフィシエ)
2002年 - ローマ大学名誉博士号、同済大学名誉教授
2003年 - 文化功労者選出
2005年 - レジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)
2010年 - 文化勲章
2013年 - 芸術文化勲章(コマンドゥール)
2015年 - イタリア共和国功労勲章
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内間安瑆
題不詳
1982
Painting
H117 × W51 cm
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Artist Profile
1921年アメリカ生れ。40年父母の国日本に留学。早稲田大学で建築を学ぶ。戦後、創作版画の恩地孝四郎に巡り逢い抽象木版に志す。55年東京・養清堂画廊で初個展。59年帰米、以降ニューヨーク在住。62,70年グッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授。2000年永逝(享年79)。メトロポリタン美術館、ホイットニー美術館、シカゴ美術館、アムステルダム国立美術館他が作品を収蔵。
日米、二つの祖国をもった内間先生は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と呼ぶ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。鮮やかな色彩のハーモニー、微妙なぼかしが入った色面が幾重にも重なる複雑な構成、多色にもかかわらず画面全体には静かな気品が漂う。
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塩見允枝子
音楽の小瓶 #1~#14
1993
Installation
H12 × W43 × D34 cm
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Artist Profile
938年岡山市生まれ。1961年東京芸術大学楽理科卒業。在学中より小杉武久氏らと「グループ・音楽」を結成し、即興演奏やテープ音楽の制作を行う。1963年ナム・ジュン・パイクによってフルクサスに紹介され、翌年マチューナスの招きでニューヨークへ渡る。1965年航空郵便による「スペイシャル・ポエム」のシリーズを開始し、10年間に9つのイヴェントを行う。一方、初期のイヴェント作品を発展させたパフォーマンス・アートを追求し、インターメディアへと至る。1970年大阪へ移住。以後、声と言葉を中心にした室内楽を多数作曲。
1990年ヴェニスのフルクサス・フェスティヴァルに招待されたことから欧米の作家達との交流が復活。
1992年ケルンでの「FLUXUS VIRUS」、1994年ニューヨークでのジョナス・メカスとパイクの共催による「SeOUL NYmAX」などに参加すると同時に、国内でも「フルクサス・メディア・オペラ」「フルクサス裁判」などのパフォーマンスや、「フルクサス・バランス」などの共同制作の視覚詩を企画する。
1995年パリのドンギュイ画廊、98年ケルンのフンデルトマルク画廊で個展。その他、欧米での幾つかのグループ展への出品やエディションの制作にも応じてきた。
2012年東京都現代美術館でのトーク&パフォーマンス「インターメディア/トランスメディア」で、一つのコンセプトを次々に異なった媒体で作品化していく「トランスメディア」という概念を提唱。
音楽作品やパフォーマンスの他に、視覚詩、オブジェクト・ポエムなど作品は多岐にわたり、国内外の多くの美術館に所蔵されている。現在、京都市立芸術大学・芸術資源研究センター特別招聘研究員。
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倉俣 史朗
Revolving Cabinet
1970
Installation
H190 × W25 × D36 cm
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Artist Profile
1934年に倉俣吉治・清の四男として東京都・本郷にある理化学研究所の社宅に生まれる。 1943年に東京の家が空襲で焼ける。後年、空襲時に米軍機が電波妨害のためのアルミチップを落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都駒込に住む。
1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「ドムス」誌においてイタリアデザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。
1957年 - 1964年まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。1964年 - 1965年(1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。
1965年にクラマタデザイン事務所設立。1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。
1970年、日本万博博覧会(EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。1972年、毎日産業デザイン賞受賞。1974年、作家・野坂昭如が参院選に出馬した際、運動員の一人として参加する。
1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。1983年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。
1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。
1990年、フランス文化省芸術文化勲章受章。1991年、急性心不全のため死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。
【受賞歴・展示歴】
67年 横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。
このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、
日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していった。
1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。
1972年 毎日デザイン賞を受賞
1981年 エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントである
メンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。
1981年 日本文化デザイン賞を受賞
1985年 Homage to Josef Hoffmann Begin The Beguine 発表
1986年 How High The Moon 発表
1988年 Miss Blanche 発表
1990年 フランス文化省芸術文化勲章を受勲
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倉俣 史朗
Floating Feather(白)
2004
Installation
H14 × W10 × D8 cm
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Artist Profile
1934年に倉俣吉治・清の四男として東京都・本郷にある理化学研究所の社宅に生まれる。 1943年に東京の家が空襲で焼ける。後年、空襲時に米軍機が電波妨害のためのアルミチップを落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都駒込に住む。
1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「ドムス」誌においてイタリアデザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。
1957年 - 1964年まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。1964年 - 1965年(1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。
1965年にクラマタデザイン事務所設立。1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。
1970年、日本万博博覧会(EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。1972年、毎日産業デザイン賞受賞。1974年、作家・野坂昭如が参院選に出馬した際、運動員の一人として参加する。
1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。1983年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。
1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。
1990年、フランス文化省芸術文化勲章受章。1991年、急性心不全のため死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。
【受賞歴・展示歴】
67年 横尾忠則らとコラボレーションしたインテリアデザインなどで脚光を浴びる。
このころから、彼が生涯にわたって好んだアクリル素材を用いて、
日常の空間に無重力を作り出したような、透明で浮遊感のある作品を生み出していった。
1970年「Furniture in Irregular Forms」シリーズで世界に広く認知される。
1972年 毎日デザイン賞を受賞
1981年 エットレ・ソットサス Jr.らによるイタリアンデザインの新しいムーブメントである
メンフィス(Menphis)の展示会に磯崎新、マイケル・グレイブスらと共に参加。
1981年 日本文化デザイン賞を受賞
1985年 Homage to Josef Hoffmann Begin The Beguine 発表
1986年 How High The Moon 発表
1988年 Miss Blanche 発表
1990年 フランス文化省芸術文化勲章を受勲
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内間安瑆
Forest Byobu (Light Mirror,Water Mirror)
1977
Prints
H46 × W71 cm
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Artist Profile
1921年アメリカ生れ。40年父母の国日本に留学。早稲田大学で建築を学ぶ。戦後、創作版画の恩地孝四郎に巡り逢い抽象木版に志す。55年東京・養清堂画廊で初個展。59年帰米、以降ニューヨーク在住。62,70年グッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授。2000年永逝(享年79)。メトロポリタン美術館、ホイットニー美術館、シカゴ美術館、アムステルダム国立美術館他が作品を収蔵。
日米、二つの祖国をもった内間先生は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と呼ぶ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。鮮やかな色彩のハーモニー、微妙なぼかしが入った色面が幾重にも重なる複雑な構成、多色にもかかわらず画面全体には静かな気品が漂う。
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安藤 忠雄
光の教会
2017
Drawing
H21 × W110 cm
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Artist Profile
1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、1969年安藤忠雄建築研究所設立。代表作に「光の教会」「ピューリッツァー美術館」「地中美術館」など。1979年「住吉の長屋」で日本建築学会賞、1993年日本芸術院賞、1995年プリツカー賞、2003年文化功労者、2005年国際建築家連合(UIA) ゴールドメダル、2010年ジョン・F・ケネディーセンター芸術金賞、後藤新平賞、文化勲章、2013年フランス芸術文化勲章(コマンドゥール)、2015年イタリア共和国功労勲章グランデ・ウフィチャ―レ章、2016年イサム・ノグチ賞など受賞多数。1991年ニューヨーク近代美術館、1993年パリのポンピドー・センターにて個展開催。イェール、コロンビア、ハーバード大学の客員教授歴任。1997年から東京大学教授、現在、名誉教授。
【原点/住まい】
安藤忠雄にとって、人間の「住まう」という最も根源的な営みを受け止める住宅こそが、建築の原点です。その作品の展開の中で、打ち放しコンクリート、単純な幾何学的造形、自然との共生といったキーワードに象徴される、安藤建築の原型は完成しました。初期の代表作から近年の圧倒的スケールの海外作品まで――住まいを通じて建築とは何かを問う、安藤忠雄の挑戦は今なお続いています。
【光】
極限までそぎ落とされたようなシンプルな造形。その無地の「カンヴァス」に光や風といった自然の息吹が映し出されることにより、安藤忠雄の目指す空間が生まれます。その意図がもっとも端的に現れているのが、一連の教会作品といえるでしょう。風、水、光、地中――それぞれに異なるテーマを与えられた建築作品の内に、それぞれに異なる光の空間が息づいています。
【余白の空間】
自らを「都市ゲリラ」と称した安藤忠雄が、都市において一貫して試みてきたのは、意図的に「余白」の空間をつくりだし、人の集まる場を生み出すことでした。その挑戦精神は、初期の小規模な商業建築から、「表参道ヒルズ」、「東急東横線 渋谷駅」、「上海保利大劇院」といった2000年以降の作品まで、変わることなく息づき、安藤忠雄ならではの個性的な都市建築の系譜が編まれています。
【場所を読む】
大自然に包まれた立地での安藤建築が登場するようになったのは、1980年代末からでした。以降、世界各地に美しくも力強い、建築による風景の創造がなされています。一貫するテーマは、周辺環境と一体化して、その場所の個性を際立たせるような建築です。その象徴が、30年間余りに及ぶ「直島の一連のプロジェクト」といえるでしょう。マスタープランなきままに、人間とアート、場所の自然風土と対話を重ね、生物が増殖するようにプロジェクトを拡張していった、その稀有の建築のプロセスが、かつての名もなき小島を、世界的なアートの聖地に育て上げる原動力の一つとなりました。
【あるものを生かしてないものをつくる】
安藤忠雄にとって、歴史の刻まれた建物の再生は、常に挑戦心をかき立てられるテーマでした。しかし、ここでいう“再生”とは、単に旧いものを残すことでも、それを新たなものとして塗り替えることでもありません。安藤流“再生”とは即ち、新旧が絶妙なバランスで共存する状態をつくりだすことです。そこに生まれる新旧の対話が、過去から現代、未来へと時間をつなぎ、場に新たな命を吹き込んでいく――安藤忠雄の壮大な挑戦は、グローバルな世界で、今なお進行中です。
【育てる】
安藤忠雄が稀代の建築家と呼ばれる理由の一つは、建築という枠組みを超えた社会活動への旺盛な取り組みにあります。完成後の建物の周辺環境整備から、地元大阪でのまちづくり活動、さらには瀬戸内海沿岸、東京湾岸部での環境再生運動……。多岐にわたるそれらの活動の根底にあるのは、「建築をつくること」と「森をつくること」を、同義に考える大胆かつ繊細な感性と、市民をも巻き込む、その壮大な構想を長い時間をかけて実現まで導く、類まれな人間力です。つくり、育てていく――既成の枠組みにとらわれない、安藤忠雄の自由な発想が、建築の新たなる可能性を切り拓きます。
【受賞歴・展示歴】
受賞
1979年 - 日本建築学会賞(住吉の長屋)
1983年 - 日本文化デザイン賞(六甲の集合住宅ほか)
1985年 - フィンランドのアルヴァ・アールト賞
1986年
芸術選奨文部大臣賞新人賞
毎日デザイン賞
1987年 - 毎日芸術賞
1988年 - 吉田五十八賞(城戸崎邸)
1989年 - フランス建築アカデミー賞
1993年 - 日本芸術院賞
1994年 - 日本芸術大賞(大阪府立近つ飛鳥博物館)、朝日賞
1995年 - プリツカー賞
1996年 - 高松宮殿下記念世界文化賞、国際教会建築賞(フラテソーレ)
1997年 - 大阪キワニス賞、RIBAゴールドメダル
2002年 - 京都賞思想・芸術部門、AIAゴールドメダル
2005年 - UIAゴールドメダル
2010年 - 後藤新平賞
栄典
1997年 - 芸術文化勲章(オフィシエ)
2002年 - ローマ大学名誉博士号、同済大学名誉教授
2003年 - 文化功労者選出
2005年 - レジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)
2010年 - 文化勲章
2013年 - 芸術文化勲章(コマンドゥール)
2015年 - イタリア共和国功労勲章
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靉嘔
靉靆C
1999
Painting
H91 × W117 cm
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Artist Profile
1931年、茨城県に生まれた靉嘔は、1950年代、池田満寿夫らと共にデモクラート美術家協会に参加し、明るい色彩の油彩画を発表し注目されました。1958年には、ニューヨークに渡り、知覚によって認識される世界を具体的な物との対話によって改めて捉えようとする中で、箱の穴に指を入れ鑑賞する《フィンガー・ボックス》や、周囲の環境を取り込んだインスタレーション等、絵画の枠にとどまらない人間の五感に訴える作品が生まれます。日常の事物や行為そのものがアートに変換された1960年代、靉嘔の「エンヴァイラメント」と呼ばれるインスタレーションは先駆的な表現として注目されました。音楽家、詩人、美術家等ジャンルを超えたアーティスト達が交わり、パフォーマンスや印刷物の製作等を通し、今日のアートの多様性のあり方に一つの礎を築いたグループ、「フルクサス」のメンバーとしてオノ・ヨーコやナム・ジュン・パイクらと共に活動します。やがて、線で描く絵画を拒否し、引用したモチーフに赤から紫までの可視光線(スペクトル)を重ねる「虹」の作品が生まれ、ヴェニス・ビエンナーレ(1966年)での発表等を経て、靉嘔は「虹のアーティスト」として国内外で知られるようになります。靉嘔の虹との格闘は、版画、絵画、インスタレーションと様々な形式により、現在まで続いています。
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瑛九
題不詳
Photography
H28 × W22 cm
ときの忘れもの
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Artist Profile
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。
明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。
【受賞歴・展示歴】
明治44年 4月28日宮崎市、眼科医杉田直の次男として生れる。
大正14年 日本美術学校入学、1年で退学。
昭和2~3年 美術雑誌「アトリエ」「みずゑ」等に美術批評を寄稿。
昭和5~8年 写真雑誌「フォトタイムス」に写真および写真批評を発表。
昭和9~10年 油絵制作に専念。
昭和11年 新時代洋画展同人となる。この時から瑛九の名を用いる。外山卯三郎氏の手によりフォトデッサン作品集「眠りの理由」を出版。
昭和12年 自由美術家協会創立参加、第1回展にフォトモンタージュ5点発表。第2回展をブリュツケ画廊で開催。
昭和14年 宮崎市で個展開催。
昭和15年 この頃から作品を制作しても発表しない。
昭和24年 美術団体連合展、自由美術家協会展に出品。自由美術家協会展出品油絵作品「正午」「街」「コレスボンド」「出発」。
昭和25年 10月上野松坂屋で第1回フォト・デッサン展を開く。第14回自由美術家協会展出品作品「海」「小さき生活」「キッサ店にて」。
昭和26年 1月宮崎市商工会議所でフォト・デッサン展を開く、この時「瑛九後援会」がつくられ、パンフレット「芸術家瑛九」が出版
される。2月宮崎県教育会館で個展開催。8月宮崎より上京。浦和市に住む。新樹会に出品。第2回フォト・デッサン集
「真昼の夢」出版。油絵「妻の像」「雲と水」等製作。
昭和27年 3月神田タケミヤ画廊でフォト・デッサン展。
11月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。3月エッチング集「小さな悪魔」「不安な街」を出版。デモクラート美術家協会
第1回展出品。
昭和28年 8月神田タケミヤ画廊でエッチング展開催。
「鳥夫人」「道のプロフィル」などエッチング多数制作。
昭和29年 8月神田文房堂で油絵展開催。油絵「赤い輪」「駄々つ子」フォト・デッサン、エッチングを多数制作。
昭和30年 1月高島屋でフォト・デッサン展、4月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。
昭和32年 4月タケミヤ画廊でリトグラフ展、6月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。第1回国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ作品
「旅人」「日曜日」出品。他にエッチング多数制作。
昭和33年 5月武生市公会堂でリトグラフ展、8月大阪白鳳画廊で泉茂とリトグラフ展開催。油絵「丸1」「丸2」「午後」等制作。
昭和34年 10月発病入院。11日埼玉県大宮小学校での現代日本洋画展にリトグラフ出品。油絵「黄」「翼」等制作。
昭和35年 2月銀座兜屋画廊で個展開催。3月10日心臓機能不全のため神田淡路町同和病院で逝去。
参考文献 久保貞次郎「淡九のフォト・デッサン」(みずゑ542 昭和25年12月)、長谷川三郎「手紙<瑛九さんへ>」(みづゑ552 昭和26年8月)、滝口修造「瑛九のエッチング」(美術手帖74 昭和28年10月)針生一郎「瑛九-われを異色作家とよぶ」(芸術新潮11-3 昭和35年3月)滝口修造「ひとつの軌跡―瑛九をいたむ―」(美術手帖173 昭和35年5月)、オノサト・トシノブ「瑛九の芸術」(現代の眼66 昭和35年5月)。以上主として国立近代美術館「4人の作家」展(4月28日―6月5日)目録によった。
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瑛九
二人
1952
Photography
H25 × W30 cm
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Artist Profile
1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。36年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。37年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。60年48歳で永逝。
明治以来、多くの画家たちが悪戦苦闘した油彩画ですが、私は瑛九こそがもっとも優れたカラーリスト(色彩画家)であると思います。既に1930年代にフォトグラムを制作した表現の地平は今から思えばマン・レイ等と並ぶ世界的な水準でした。油彩、水彩、フォトデッサン、版画それぞれに独自の表現を求め、決して自分を模倣することはありませんでした。いつもそこには光り(最も美しい色彩)がありました。
【受賞歴・展示歴】
明治44年 4月28日宮崎市、眼科医杉田直の次男として生れる。
大正14年 日本美術学校入学、1年で退学。
昭和2~3年 美術雑誌「アトリエ」「みずゑ」等に美術批評を寄稿。
昭和5~8年 写真雑誌「フォトタイムス」に写真および写真批評を発表。
昭和9~10年 油絵制作に専念。
昭和11年 新時代洋画展同人となる。この時から瑛九の名を用いる。外山卯三郎氏の手によりフォトデッサン作品集「眠りの理由」を出版。
昭和12年 自由美術家協会創立参加、第1回展にフォトモンタージュ5点発表。第2回展をブリュツケ画廊で開催。
昭和14年 宮崎市で個展開催。
昭和15年 この頃から作品を制作しても発表しない。
昭和24年 美術団体連合展、自由美術家協会展に出品。自由美術家協会展出品油絵作品「正午」「街」「コレスボンド」「出発」。
昭和25年 10月上野松坂屋で第1回フォト・デッサン展を開く。第14回自由美術家協会展出品作品「海」「小さき生活」「キッサ店にて」。
昭和26年 1月宮崎市商工会議所でフォト・デッサン展を開く、この時「瑛九後援会」がつくられ、パンフレット「芸術家瑛九」が出版
される。2月宮崎県教育会館で個展開催。8月宮崎より上京。浦和市に住む。新樹会に出品。第2回フォト・デッサン集
「真昼の夢」出版。油絵「妻の像」「雲と水」等製作。
昭和27年 3月神田タケミヤ画廊でフォト・デッサン展。
11月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。3月エッチング集「小さな悪魔」「不安な街」を出版。デモクラート美術家協会
第1回展出品。
昭和28年 8月神田タケミヤ画廊でエッチング展開催。
「鳥夫人」「道のプロフィル」などエッチング多数制作。
昭和29年 8月神田文房堂で油絵展開催。油絵「赤い輪」「駄々つ子」フォト・デッサン、エッチングを多数制作。
昭和30年 1月高島屋でフォト・デッサン展、4月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。
昭和32年 4月タケミヤ画廊でリトグラフ展、6月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。第1回国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ作品
「旅人」「日曜日」出品。他にエッチング多数制作。
昭和33年 5月武生市公会堂でリトグラフ展、8月大阪白鳳画廊で泉茂とリトグラフ展開催。油絵「丸1」「丸2」「午後」等制作。
昭和34年 10月発病入院。11日埼玉県大宮小学校での現代日本洋画展にリトグラフ出品。油絵「黄」「翼」等制作。
昭和35年 2月銀座兜屋画廊で個展開催。3月10日心臓機能不全のため神田淡路町同和病院で逝去。
参考文献 久保貞次郎「淡九のフォト・デッサン」(みずゑ542 昭和25年12月)、長谷川三郎「手紙<瑛九さんへ>」(みづゑ552 昭和26年8月)、滝口修造「瑛九のエッチング」(美術手帖74 昭和28年10月)針生一郎「瑛九-われを異色作家とよぶ」(芸術新潮11-3 昭和35年3月)滝口修造「ひとつの軌跡―瑛九をいたむ―」(美術手帖173 昭和35年5月)、オノサト・トシノブ「瑛九の芸術」(現代の眼66 昭和35年5月)。以上主として国立近代美術館「4人の作家」展(4月28日―6月5日)目録によった。
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松本 竣介
作品
1946
Painting
H24 × W30 cm
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Artist Profile
松本竣介は1912年東京都生まれ。幼少期から岩手県盛岡市で過ごし、盛岡中学校1年生の時に聴力を失う。中学3年生だった29年に盛岡中学校を中途退学し、上京。その後、太平洋画会研究所に通った。35年、鶴岡政男らが創設したNOVA美術協会の展覧会に出品し、同人に推薦。また同年秋には、二科展で《建物》(1935)が初入選する。36年には雑誌『雑記帳』を創刊するも、売れ行きが伸びず37年12月号(通巻14号)で廃刊している。戦時中、雑誌『みづゑ』の1941年1月号に軍人が参加した座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」が掲載された際は、同誌4月号に「生きてゐる画家」の題名で論考を発表。画家の精神の自立を説いた。《Y市の橋》(1943)や《立てる像》(1942)など、都会の風景や、そこで生きる人々を数多く描き、昭和前期の近代洋画史に足跡を残すも、48年に結核が原因で死去。享年36。死後、遺族の寄贈により68年に神奈川県立近代美術館旧鎌倉館の一室が「松本竣介記念室」として公開された。近年の主な回顧展に2012〜13年にかけて開催された「生誕100年松本竣介展」(岩手県立美術館などを巡回)、「松本竣介 創造の原点」(神奈川県立近代美術館 鎌倉別館、2016)など。
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